サイゴン、パリ

このあいだようやく届いた日本からの荷物の中に、出国の前に友人からもらった二冊が含まれていた。どちらも近藤紘一というジャーナリストの本であった。

 

ルポルタージュというジャンルの読みものがあまり得意ではない。そもそも書物にかかわる仕事をしているのに、気晴らしの時間に勉強のようなことをしたくないからだ。固有名詞も、年号も、どちらもできるだけ出てこないような読書ばかりを好んできた。

だからこの『サイゴンのいちばん長い日』だって読み進めるのに苦労しなかったわけではないのだが、それでも二日ほどで貪るようにして読み終えた。

 

この本は1975年春のベトナム戦争終結前後、産経新聞の記者として、サイゴンに駐在していた著者が、ベトナムという国の分断の解消、あるいは南ベトナム共和国の敗戦について日記形式で書いたものだ。

戦争ものというと身構えてしまう人もいるかもしれないが、この本には、何らかの政治的主張というより、むしろ政治的主張というものの危うさが描かれている。彼はサイゴンに駐在していたので形式上はチュー大統領を中心としたベトナム共和国(南側自由主義政府)に寄り添って取材していたはずなのだが、ベトナム労働党(北側共産党政府)の人々のまなざしにも注意を怠らなかった。「現実主義」を標榜する著者は、何らかの主義主張に基づいて行動するのではなく、いかに和平が訪れうるかという最短ルートをその都度予測していく。そのため単に歴史的事象を追うとか、あるいは偏ったイデオロギーから事態を物語化してしまうこともない。著者は「いちジャーナリスト」という自戒を解くことなく、かつ当事者の目線に立って行く末を見つめるという離れ業をやってのける。

当事者、と言ったがこれは政府関係者のみならず、そこに暮らす者すべてを意味する。街の行商人の様子や、現地支局のお手伝いおばさんの日常、さらには彼が結婚した南ベトナムの女性とその家族の経歴など。こうした人間模様のディテールに、ベトナムの風景描写を時折交差させることで、さまざまな文脈が鮮烈に描き出される。

 

この本の「終わり」は、当然ながらベトナムと言う国家の終わりではないし、もっと言えばベトナム戦争の終わりですらない。それは新たな歴史を作り出す、おおきなうねりの一つの波頭にすぎない。

続いて取り掛かった二冊目は、『したたかな敗者たち』。これも二日ほどで読み終えた。

こちらの内容は『サイゴン…』で描き切れなかった背景や、その後の東南アジア情勢にまつわる、四つの中編で構成されている。

共通する登場人物の描写が出てくると、なんだか親戚にあったように懐かしいし、それぞれ時代も場所も違う四編が、サイゴンを軸としてゆるやかなまとまりを為しているのがわかる。これはもちろん著者の記述の確かさを示している。

 

書きたいことは山ほどあるので、また機会を改めるかもしれないが、ひとつだけ。

天気が悪いパリの夕方、電車に揺られながらこの本を読んでいた。ちょうど、パリ68年5月事件について書かれている箇所だった。

著者にとってのある種のトラウマであるこの留学経験について考えていた。すると隣に座ったインド系らしき夫婦が騒いでいたので目を上げると、ちょうどセーヌ側から見たエッフェル塔が大きく車窓に飛び込んできた。

サイゴンとパリをつなぐルポルタージュの中に、現在の日本人としての自分が突如強い結びつきを得て、気が遠くなるような感覚だった。もしやと思い、著者の当時の年齢を確かめると、自分とぴったり同じ年齢だったらしい。