フランスは畜産大国で、ちいさなスーパーでもちゃんとした牛肉、鶏肉、豚肉が買える。
加工肉製品も多く、ソーセージはやはりうまい。
お隣のドイツはソーセージで有名だが、フランスもやっぱりおいしいのだ。
(これはベルギーのチョコレートに関しても言えるが、またの機会に。)
今日はハンバーグのご紹介。
写真のメーカーが多分一番有名で、各家庭でかならず一つは冷蔵庫か冷凍庫に常備してある。
写真はそのまま焼いたもの。
(あんまりうまく焼けていないけど)
牛肉百パーセント、かなりしっかりした肉という感じ。おいしいですよ。
最近は焼く前に玉ねぎのみじん切りを混ぜたりしてアレンジしている。
値段は(ものによるが)二つで3~400円くらい。
今日は偶然見つけたバンドをご紹介。
Les Rois du Macadamというコミカルなスイングバンド。
名前は「砂利道の王たち」みたいな意味です。
衣装も凝ってるし、いつか遭遇できることを願いつつ。
日本のあのバンドと対バンしてほしいな、などいろいろと考える。
もしおすすめのバンドがいれば教えてください。
今日の更新はある意味スクープに近いものかもしれない。
バスティーユ、と言えば普通はバスティーユ監獄などを思い浮かべるかもしれないけれど、在仏外国人にとってはOFII(フランス移民局)の所在地である。
滞在許可証取得のためにいやというほど待たされた記憶のある人は多く、バスティーユと聞くだけで若干嫌なムードである(個人的な感想です)。
ところで今日も事務的な用事でバスティーユまで出かけた。いろいろあった末、用事はひと段落したのだが、帰り道にふらっと寄った雑貨屋で目を疑った。
なんてことのないオシャレな雑貨屋なのに、なぜか「いい匂い」がする。店内奥へ行くと、お店のひとらしきオヤジが、ど真ん中の(これまたオシャレな)机でメシを食っているではないか!
客も気まずい。もくもくと食べるオヤジ。
あえてこっち向いて食べなくていいんじゃないかと思う。
構造的にバックヤードが無いのだろうが、この辺りはカフェも軽食屋もたくさんあるのに。
でも、考えてみれば、こうして自分の店で何をどう食べようが、まったくもって彼の勝手だ。
そらそうだ。
豪胆なオヤジである。自由の国フランスにて。
フランスにはごはん食の文化があまり浸透しておらず、日本や中華料理以外の店では、食べるとしてもライスプディングか、付け合わせのピラフのどちらかである。
しかも、ピラフもなぜかココナッツ的なフレーバーが付けられており、チャーハンの感覚で頼むとゲンナリすることになる。
(リゾットもあまり見かけない気がする)
ということで、鍋でごごはんを炊いてみました。
大きく分けると細長い米Riz Long、と丸い米Riz Rondの二種類がある。日本のごはんは後者。
意外に普通のスーパーでも売られている。
だが、パッケージの調理方法のところには、ミルクで甘く煮詰めます、ライスプディングに最適!と書かれている。
多少不安になりつつも、購入し、さっそく炊いてみる。
鍋で米を炊くのは初めてだったが、沸騰してから弱火でぐつぐつ煮ると、わりとすぐ完成。15分くらいのイメージだ。
出来上がりは写真の通り。甘味やツヤは日本で食べたものよりはやや劣るが、贅沢は言っていられない。十分ごはんだ。
3合弱ほど炊いたので2合は冷凍庫へ。
いつ使おうか、すでに楽しみだ。
こだわりラーメンに行ってきました。
2016年4月にオープンしたらしいこのお店、パリの日本人の中でも有名だったので行ってみた。
さっそく店頭から様々な「こだわり」が。
入口はガラス戸ではなく、日本の居酒屋でよく見かける、長方形の透明プラスチックシート。
入るとラーメン屋というよりも繁華街の裏通りという趣。
「おたから」コーナーにはお祭り屋台風にお面やバッヂなどが並んでいる。
その中にはお品書きもあるが、おでんやお寿司はお店では出していない。
その他に、二階にはピンクの電話があるし、壁には古びた昭和ポスターが飾ってある。
当然、ラーメンにも相当こだわってるのであろうと期待が高まる。
「12時間煮込んだスープ、自家栽培の小麦で作った自家製麺です」
とメニューの頭に書いてある。
ラーメンは現在4種類で、醤油、白湯、塩、黒ゴマニンニク、というラインナップ。
一風堂もそうだが、12€(1450円くらい)はパリのラーメンの相場らしい。
今回は白湯ラーメンを注文。
バスク地方の豚を使ったチャーシューらしい。
替え玉2.5€、ご飯2.5は少し高めかな。
デザートのどら焼きもあるし、左側にはどんぶりメニューも。日替わりどんぶりもあるそうです。
(その日は炊き込みご飯だった)
さてラーメン、どん。
もやしはシャキシャキ、みじん切りにされた玉ねぎが甘い。メンマは多め、柔らかめ。ゴマと九条ネギは、まぁ彩りかな。
スープは、白湯といえどマイルドというよりも鶏の風味がしっかりした味。塩分はそれほど強くない。
自家製麺はもちもちした縮れ麺。細麺だが一風堂などのぷっつり切れる細麺の対極という感じ。
(黒ゴマのも一口食べたが、こちらはあっさり目でにんにくとショウガ?が効いたスープだった)
全体としては、日本の再現というよりは独自のゴールを目指している感じ。コストを省き、いろいろとそぎ落とした結果、攻撃力だけやたら高いような「雑」なラーメンよりは、むしろ印象が弱いかもしれない。あとは好みかな。ぜひ一度どうぞ。
カルボナーラを作った。
皿の大きさに対してパスタの量が多かったが、なかなかおいしく作れたと思う。
面倒なのでレシピについては、詳しくは料理の集合知ことクックパッドを見てほしい。
余談だが、クックパッドが無料で提供されているということはすごいことだと思う。もはや料理における「最適解」みたいなものが出て、みんなこれを食べれば満足、みたいな状況になりつつあるんじゃなかろうか……。恐るべき時代である。
さて、カルボナーラに関して思い違いをしていたことが2つある。(作り慣れている人は、ばかだと思って読んでください)
一つ目は、小麦粉を使わないということである。
カルボナーラを外で食べると、ソースには、いわゆるクリームソースのようにとろみがついている。これはきっと小麦粉なのだろうといつも考えていた。だが違った。
これはチーズのとろみなのだ。どうりで濃厚でおいしかったはずだ。
二つ目は、たまごを入れるタイミングである。
レシピを読んだとき、ははーん、と思った。これはカルボナーラーの中ではきっと常識なのだ、と。そして僕がこうしてブログで無知をさらけ出せば笑われるのだろう、と。
しかし、第二の僕を出さないためにも、ここであえて書いておく。
カルボナーラにたまごが登場するのは、一番最後なのだ。
なるほどそうか、とわかった途端当たり前のように思えてしまう発見を「コロンブスのたまご」というが、今日のは、カルボナーラのたまご、である。
Ça va ? サヴァ?
という挨拶は日本でも有名で、もちろん「元気?」という意味なのだけれど、どうもテンポが難しい。
日常生活でÇa va、という言葉を使う機会はとても多いし、その都度ちょっと変な間があいてしまう。
どういうことか説明しよう。
「Ça va?」に対する答えは「Ça va bien.(元気だよ)」等なのだが、ここが問題なのだ。
どうもフランス人はこの挨拶にほとんど何の感情もこめていないらしい。
つまり、こちらがもし疲れぎみだったとしても別に答えは「Oui, ça va.」で構わない。Bonjour.やSalut.と同じで、挨拶のための挨拶という感じらしい。
考える必要は全然ない。だからこそ、テンポよく答えられないと「変な人」っぽくなる。
しかも、なんとなく観察していると、Ça va bien.で会話を終えている人はほとんどいない。だいたいがこう答えているのだ。「Bien, et toi?(元気さ、君は?)」。
これで相手に会話のキャッチボールを投げ返したことになり、ワンターン続いたということになる。
だが、これが本当にタイミング早くて、いわゆる食い気味のテンポで展開される。実際はビヤン、エトワと発音するはずなのだが、ベネトワ、くらいの感じだ。
個人的な感覚だと思うが、朝一に誰かとであって「ボ」ンジュールとか「ビ」ヤンエトワとか、Bの口にするのがとてもおっくうだ。朝はまどろみの中で口元をぼんやりさせていたい。ヨダレさえぎりぎり垂れていなければ十分だ。そんな時にサヴァ、である。
ならば、もうこちらとしてもベネトワ、をあらかじめ準備しておくほかない。相手に考える隙を与えずに切り返す。
さながら武士である。
本屋に用事があったのだけれど、ふと思い立って二駅分歩くことにした。
ポールロワイヤルPort Royalという駅から、サン・ミシェルSaint-Michelという駅までの間。少し離れているが、なかなか駅の入口が見つからなかったということもあり、気分転換に歩いてゆくことにしたのだ。
このあたりはいつもRER線という縦横を通る国鉄にのって通っているのだが、降りて歩くことはあまりない。
せっかくなので、リュクサンブール公園を通ることにした。
公園の中はすっかり秋模様になっていて、土曜ということで家族連れがたくさんいた。
(写真ではあまり人がいないように見えるけれど、何せ広いのだ)
公園といえど、ナポレオンが使用し、現在では上院議院となっているリュクサンブール宮殿がやすやすと入るほど、大きな敷地を持っている。
忙しさであまり観光できていないものの、こうしていたるところに名所旧跡があるのがいいところだと思う。
庭園の歩道脇には花々が育てられ、今でも住人たちの憩いの場になっている。
ぶらぶらと歩いていると、音楽が耳に入って来る。
吹奏楽の音色が、秋の庭園と相まっていい雰囲気だ。
ラッキーである。
最後の二曲に間に合ったのでしばし休憩。
けっしてプロ級に上手というわけではないけれど、土曜の夕方に聞くにはちょうどよかった。
興味のある方はl'Association Musicale du Val de Bièvreをお調べください。
次回は12月4日の11時から、クリスマスマルシェで演奏するそうです。
冷蔵庫も手に入ったので(しつこい)、アイスを買ってみた。
こちらに来てからそこそこ健康な食生活をしている。けれど、疲れを脂肪と糖で消化するたちなので、何か物足りない。
別にこのまま健やかでいれば良いのだが、タナトス的、自己破壊的な欲求に突き動かされてついにやってしまった。
グローバル企業、ネスレのアイスは安いしおいしいしでどこにでもあるらしい。どれにしようかと少し迷って、ぜいたく品の趣の強いラムレーズンを選んだ。
下宿についてパッケージを開け、スプーンを入れる。が、何かおかしい。
やわらかいのだ。
しかも、日本の「爽」みたいなシャリシャリしたやわらかさではない。ぬめっとしているのだ。
あずきバーを筆頭に、日本のアイスが固いのか、こちらのがやわらかいのか知らないが、固いはずのものがやわらかいと混乱する。
そういえば洋画で、「冷凍庫からバケツサイズのアイスを取り出して、そのままスプーンでがばがば食べる」というシーンがあった気がするが、こういうことかと納得した。
半袖だった時期から一週間ほどで、もうセーターにマフラー、である。
今日はとくに朝が冷え込んだので、ぼちぼちステテコかなと考えるほど寒い。
ロンTだけで過ごす時期はほぼ無いのだ。
そんな中、近くのスーパーで見知った果物を発見。名前は「KAKI」と書いてある。そう、柿である。
明らかに堅そうだし、日本でポピュラーなサイズに比べるとやや小ぶりなのもあって少しためらったのだけれど、せっかくの再会を無下にはできぬ、と思い買ってみることにした。
とは言うものの、やはりすぐに食べると渋いだろうし、どうにもできぬまま1週間ほどたっただろうか。
夕飯を食べた後に甘いものがほしくなった。冷蔵庫を開けると、オレンジに色づいた柿がひとつある。
試しに食べてみることにする。
四つに切ってみるとこんな感じ。
これなら、と思って口に入れてみると、甘い!
思ったままの味で安心する。
種なし柿だったようで、皮をむいたらそのまましゃくしゃくと食べてしまった。
日本では、今ごろはまだ暖かいのだろうか。
鍋の季節はもうすぐなのだろうか。
ひとくちひとくちを噛みしめて食べると、それはしっかりと秋の味わいなのであった。
日本ではあまり知られていないかもしれない、マドリン・ペルーという女性シンガー。
Franprixというスーパーでかかっていて、あまりにも良かったのでAmazonでCDを購入。
オーセンティックなジャズのように見えて、ギターやマスタリングに今っぽいアプローチも聞こえる。
余裕たっぷりのスモーキーボイスが素晴らしく、「現代のビリー・ホリデイ」と呼ばれるのもわかる。
歌詞はこんな感じだ。
「100万回泣いて 100万年待ってもいいけれど
時が解決してくれると思ってるなら
待ちすぎてはだめ
朝が夜に変わったとき キャンドルライトのそばで愛してくれるひとはいる?
時が解決してくれると思ってるなら
待ちすぎてはだめ
多分学ぶべきことは多くて 時は逃げていってしまう
ときどきは全て失ってしまう 前に進むまでに
チャンスをつかんで、思い切りやるのよ
恋をしなさい、それが胸をつぶしてしまうとしても
時が解決してくれると思ってるなら
待ちすぎてはだめ
雨が降ったりやんだりするし
愛は素敵なワインのように年老いていく
でも時が解決してくれると思ってるなら
待ちすぎてはだめ」
いかがでしょう。
これは誰に向けて歌われた歌だろう。基本的に主語がyouだから一般的な教訓を歌っているのかと思いきや、「学ぶべきことが多くて」というところでは一人称に変わる。
ということは、別れた恋人に向けて歌った歌かもしれない。いつまでも待つよ、と言ってくれた恋人に。
以前、パリでスマホを使っている人がほとんどいない、という話を聞いたことがあった。3、4年くらい前のことだ。
当時日本ではスマホが一般に普及しており、たとえば電車に乗ればほとんど全員が手元の画面をのぞいていた。明らかに一過性のブームではなく、今後もこうして移動時にスマホをいじる人ばかりになるのだろう、という話をしていた時のことだった。
パリジャンはスマホを使わないんだ、とその人は主張した。パリはスリがいて危険だし、何より電車でスマホを使うという姿が美しくないからだという。
僕がこのやりとりを思い出したのは、こないだ乗った朝の電車で、ほとんど全員がスマホをいじっていたからだ。
たしかにその中にはスマホじゃない普通の携帯もあった。(しかもメール見るのも面倒なくらい画面の小さい携帯)。でも当時パリジャンがスマホを使っていなかったのは、犯罪とか美的センスが理由なのではなくて、ただ一般に浸透してなかっただけなんだろうと思う。
ちなみにフランスは日本よりもSIMフリーの文化がある。携帯単体で購入し、そのあとSIMカードを契約することで電波が使えるようになる、という感じだ。SIMカードは年ごとのものや、月ごとに取り換えるものなど、いろいろだ。もちろん日本に持って帰ってもSIMカードを契約すれば使える。
僕はと言えば、まだ電波を使える契約をしていないので、Wifi(フランスでは「ウィフィ」と言う)が無ければインターネットができない。いつも、次のセーブポイントを探すRPGの主人公みたいな気分である。
その2からの続き。
ニュイ・ブランシュは屋内展示もたくさんあって、普段は夜に入れない場所に入れるのも面白い。
さて、写真はパリの土壌を水に溶かした、「PETRICHOR」。このタイトルは、「雨が降ったあとの土のにおい」というロマンチックな意味を持っている。
もともとこの言葉は1964年、オーストラリアで発見された効果へ与えられた名前である。本当は雨のにおいの模倣ではなく、土壌と天候との関係におけるにおいの発生を調べるための研究だったらしい。
奥に見えるのは土壌を調査するためにアーティスト本人がスコップでパリ中を掘り起こしている様子。
これはある聖堂に展示されていた作品。「天より高く」というタイトル。
既製品の服が聖堂の天井を突き抜けんとしている様子は、テロ被害者である一般人の魂のようであり、バベルの塔の現代的なイメージのようでもある、と解説に書いてあった。
芸術については詳しくないけれど、聖堂の中に普通の服がかかっているのは愉快だった。
最後の写真は、パイプオルガンの演奏。今年は作曲家エリック・サティの生誕150周年だったこともあり、いくつかの会場でパイプオルガンのコンサートが開かれていた。
この会場では1893年に書かれた「侮辱Vexation」という曲が演奏された。この曲、知る人ぞ知る有名曲である。一分ほどの曲の840回におよぶ繰り返しで構成されている。演奏し終えるのに非常に長い時間がかかるわけだ。(だから、演奏者への「侮辱」、という意味もあるとされる)。サティは1866年生まれだから、彼が27歳の時に書いたことになる。そのとき彼が何を思っていたのか、と思うほど不穏な曲である。メロディはリフ部分の繰り返しによって構成されている。
パイプオルガンで演奏されることによって、ピアノで演奏されるときに現れる演奏者の表現的側面が薄れ、曲の和声が長音で強調されていた。
(下にYOUTUBEのリンクを貼っておきます。)
全体を通してみると、芸術作品が、美術館という枠にとらわれず、日常的なものの中に置かれることに意味があるのだろうと感じた。芸術鑑賞とは、必ずしもお金や時間を消費してやっと成立するものではない、というメッセージになっているわけだ。
これと関連して、今期の授業のテーマのひとつに「芸術機械」というのがあるのだけれど、それはまた今度。
前回の続き。
全体テーマの物語内で出てくる「森」のイメージで、オテルドヴィル(市役所)前の広場に大きな展示があった。見渡す限りの白い舞台に、白く塗装された木の太い枝が並べられている。いくつかの枝はゆっくりと回転している。
グリム童話などにインスピレーションされた、というこの作品は「眠さ」というタイトルで、森の中の凍った湖を表現している。
その裏では、ロックバンドが演奏していて、かなりの人だかりになっていた。ここに限らず、演奏家は街角にちらほらいた。ニュイ・ブランシュは芸術を鑑賞する、というよりは芸術をネタにみんな街へ出て騒ぐ、という感じだった。
あんまり長居しても仕方ないので通り過ぎてしまったが、久しぶりに生演奏を聞いたという気がした。
これはMurmurという作品で、「壁おしゃべり」とでも訳せばいいのだろうか。murというのが壁という意味で、murmurerというのがごにょごにょ話すという意味。ふたつの掛詞になっている。
右側にコップみたいな形の受話器があって、そこに話すと、糸電話みたいにケーブルを伝って光線が発射され、壁に音波の絵が出現する。
ある女性が、携帯電話に出てもらった友達に叫ばせて、遠隔おしゃべりを投影していた。(でも、友達には見えないからかわいそう)
(その3へ続く。次は屋内編)
10月1日、2日はニュイ・ブランシュNuit Blancheという、パリ市内を使った芸術祭りが開催されていた。市のど真ん中、オテルドヴィルのあたりを中心に、セーヌ川沿いにいろいろな催しが企画されている。
道端に展示があったかと思えば、教会ではパイプオルガンの演奏があったり、美術館が夜遅くまで開館していたり。ライブハウスでも関連した催しが行われているし、屋台もまばらに出店している。
(実は日本でもこの試みは行われている。京都では同じ時期に、アンステイチュ・フランセを中心にして数々の展示がある)
僕も普段めっきり観光に行けていないので(もちろん本業のためである)、夕食後に出かけることにした。最初に行ったのが、ノートルダム大聖堂の夜間開放である。今回ノートルダムは初めてだったし、夜に中に入ったことがなかったので珍しいものを見たな、という印象。
スクリーンに「現代に生きるノートルダム」みたいな映像がかかっていた。
セーヌ川から見たノートルダムもやっぱり綺麗で、頻繁に横切る遊覧船バトームッシュのまばゆい光に邪魔されながらも、写真を撮る人がたくさんいた。
芸術祭といえど、すでに街並み自体が芸術みたいなもんだよな、と思う。日本の街並みだってそうで、そもそも文化や歴史、人々の工夫が積み重なって今の姿になっているわけだから。ある意味で作りたての工業製品とは違う時間の流れが感じられる。
2016年のニュイ・ブランシュ全体のテーマは「ポリフィルPoliphile」。これは、『ヒュプネロトマキア・ポリフィリ』という、恋物語の主人公の名前だ。主人公は夢の中で森をさまよい歩きながら、恋人を探し求める。
この写真はちょっと変わったパフォーマンス。アルコル橋という大きな橋の上で何か人だかりがしているなと思って見てみた。チェーンソーで木から削り出したハート(に見立てた木)を、参加者が斧でぶち壊す。そしてその壊した破片を隣で燃やす。「壊れたハートの制作」というタイトルのインスタレーション作品だった。(その2に続く)
フランスは日本と違ってほとんどの買い物をクレジットカードで済ませてしまう。たとえスーパーでスナック菓子をひとつ、という場合でもカードでOKである。別に嫌な顔をされるわけでもない。
だから、ほとんど高額紙幣の出番はない。以前スターバックスで50ユーロ札(6000円くらい)を出したところ、それでは払えません、と言われたことがある。銀行からお金を下すときも、「20ユーロ、10ユーロ札だけでの支払い」という選択肢があるほどだ。
しかし、だからこそ、小銭しか使えない場合にとても困ることになる。たとえば僕の使っているコインランドリー(laverieとかlavageと看板に書いてある)は、一回2ユーロ+乾燥機1ユーロだし、自動販売機は一つ1ユーロから2ユーロである。こまめに用意しておかないと、わざわざ買い物してお金を崩しに行かないといけないことになる。5ユーロ紙幣なんかと比べれば、むしろ小銭で持っていた方が使い勝手がいいのだ。
ある時、パン屋Boulangerieでパンを買うとき、レジのお姉さんがどこかへ出かけてしまった。ちょっと待っててと言い残して。数分待っていると、だんだんお客さんが増え、列をなしていく。先頭の僕に、レジ係どこへ行った?とか訊かれるが、わからないものはしょうがない。10分ほどして、彼女が戻ってきた。曰く、「小銭を作っていたのよ」。なるほど、そういうこともあるのか。