親からのプレゼント

この年末は、ひさしぶりにクリスマスを実家で過ごした。

 

クリスマスは僕の実家にとって一年のうちでもかなり大きなイベントだ。羊肉を買い、鮭のムースを作り、ワインを開けて、チーズを食べる。そうしたささやかな贅沢を、たいそう贅沢なこととして味わう。クリスマスプレゼントもやはり用意することになっている。なんとなく全員が、「今年はプレゼントなんて用意してませんよ」というふりをする。しかしきまって、ころあいを見計らって、毎年間違いなくプレゼントの交換が行われるのだ。

 

もちろんこの間は、実家でのひさしぶりのクリスマスだったから、僕もプレゼントを前もって準備していた。プレゼント選びはとても難航した。引っ越しを控えた妹夫婦には何をあげるべきか。もう高齢者の仲間入りをしている両親には何をあげるべきか。悩みに悩んでそれぞれにプレゼントを選び、プレゼント包装をしてもらい、いそいそと部屋へ――見られないようにして――運んだ。

 

自分はちっともかわいくない子供だったと思う。誕生日やクリスマスなどプレゼントをもらえるタイミングには、できるだけ高価そうな――といっても、なんとなく買ってもらえそうな範囲で、の話だが――おもちゃを選んでいたような気がする。

 

ある年、販売促進用の漫画とともに流行っていた、あるおもちゃをねだったことがあった。両親はおそらく良かれと思って、そのおもちゃの「少し大きな」「電動の」を買ってきたのだった。当日になって、プレゼントを渡された僕は、きっと嫌な顔をしたんだと思う。なぜって、僕が欲しかったのは「少し小さな」「手動の」おもちゃだったからだ。その日以降、そのプレゼントは「なかったこと」になり、戸棚のなかにしまわれてしまった。子供心に、僕は両親を傷つけてしまった、と死ぬほど後悔した(そして、こうしてクリスマスのたびに何度も思い出しては自分を責める)。

 

今回のクリスマスももちろんプレゼントの交換が粛々と行われた。みんなそれぞれに渡されたものを見て嬉しがっていた、あるいは、嬉しがるふりをしていた。両親が僕らにくれたものは、家族みんなでおそろいのマフラーだった。そこまで高価なものではないが、そこまで安価なものでもないだろう、といやらしい大人である僕は頭のなかで電卓をはじいた。でもなにより、こうして久しぶりに全員そろった家族が、プレゼントを囲んでわいわいしていること自体がすごくいいことなのだ、と思える感性がすでに僕のなかに備わっていたことに安堵した。僕のなかにまだ生き残っているあの腹立たしい子供も、いまの僕と同じように幸せそうな顔をしていてくれるといい、と思う。