四月の魚

毎年エイプリルフールになると何か嘘をついてやろうとたくらむのだけれど、結局気づけば何もできずに終わっている。

 

エイプリルフールに人をだますのは爽快だ。頭脳ゲームでさえあると思う。三島由紀夫も『不道徳教育講座』の中で、嘘をつくのは「頭脳鍛錬法」だと言っていた。

 

だけれど、大人の嘘はもうエイプリルフール向きではない、と思う。大人になればなるほど、ひとは嘘を塗り重ねていって、あたかもそれが自分の一部であるかのようになってしまう。たとえば今日いくつ小さな嘘をついたか、数えられる人はいないかもしれない。それほど日常生活と嘘は同化してしまっていると感じる。反対に言えば、日常生活との関係を考えてしまって爽快な嘘が見つからなくなるのだ。こう言ったら相手が傷つくかな、とか、自分のイメージに合わない、とか、会社に迷惑がかかる、とか。嘘がうまくなりすぎてしまったからだ、と思う。

 

フランス語でエイプリルフールは「四月の魚 poisson d'avril」という。嘘をついたりもするが、相手の知らないうちに背中に魚の絵を貼り付けて、やーいやーい、という遊びをしたりする。今年の4月1日には、ある親子の家に食事に行ったのだけど、その家の子がお母さんの背中に魚の絵を貼り付けて喜んでいた。彼の幼さ、無邪気さに感じ入る以上に、こうして人をだますことの爽快さを味わえない自分を少しだけ恨めしく思った。家に帰るまで、なんとなく彼のことを考えていた。あとどれくらい、彼はこうして爽快に人をだませるのだろう。部屋へ戻って上着を脱いだとき、コートの背中に一匹の「魚」を見つけた。僕は、やられた、と思うと同時に彼の屈託のない笑顔を思い出した。時刻はもうとっくにエイプリルフールを過ぎていて、僕は今年も嘘をつくことができない。