アイ・ラヴ・ジャズ

パリジャンの友人に聞いた話だが、フランス人が日本に来ると「日本人ってジャズ好きなんだね!」と驚くらしい。実際どこの街に行っても、気の利いた雑貨屋や若い人が経営しているらしい飲食店に入ると、たいてい決まってジャズが鳴っている。

 

だが、これは日本人がジャズが好きだということの表れでは全然ないような気がしている。強いて言えばジャズが「嫌いではない」とか「身近なものだ」というだけなのではないか。その証拠に、「好きな音楽は?」と聞かれてジャズと答える人はとても少ない。

別にちょっといいかもという程度で好きだと言ってはいけないという話ではなくて、なんとなくいいかも、みたいな人が好きだとはっきり宣言しない理由って、一体何なのだろうと以前から疑問なのだ。 単なるイメージの問題ではないかとも思える。日本でジャズといえば、なんとなく小難しくておじさんのやっている音楽というイメージがある。あるいはツウぶった人間のやるものだとか。ジャズはややこしい、という印象があるから好きと言うのがはばかられるということだ。だが、僕が見るに、おそらくこれはもっと根が深い話だ。

 

ジャズには、ロックンロールのようにアイ・ラヴ・ロックンロール、と言ってしまえないねじれのようなものがある。熱狂の音楽ではないのだろう。ジャズライブでこぶしを突き上げている人は見たことがないし、プレイヤー自身もそうしたものを求めていない。一方で、一生かけて味わえるような強烈な魅力もあるし、ビートニクの詩人たちはクスリで朦朧としながら感覚的にジャズを楽しんだというが、演奏するためには、和声やメロディの複雑さに対する感性や知性が必要とされる。

感覚的な心地よさを遅らせるとか、ずらすということがジャズにとって本質的なことなのではないだろうか。つまり、単純なジャズはジャズではないのだ。もっとも簡単な形のジャズ、すなわちスウィング、もっといえばブルースだって、ちょっとしたリズムの遅れないし走りとか、半音下や上からのアプローチによって気持ちよさをズラすのは必須の要素だ。焦らしというか、余裕というか。このちょっとした「ズレ」にたまらない何かがあるのだけれど、それは何なんだろう。まだ答えは出ない。