ケガニの横歩き


笑い声

スペイン人だかラテンアメリカ人だかが、SNSで「jajajajaja」と言っていた。

 

スペイン語で「J」は「H」と発音するので、「ハハハハハ」と読むのだけれど、なんとなく「じゃじゃじゃじゃじゃ」と読んでしまっておもしろい。漫画のワンピースでそうやって笑うキャラがいそうだ。

 

人の笑い声は千差万別だけれど、文字にしてしまうとあんまり差がつかなくて残念だ。とても魅力的な引き笑いをする友人がいたけれど、SNSでは「www」と書いていて、なんとなくつまらなかった。

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親からのプレゼント

この年末は、ひさしぶりにクリスマスを実家で過ごした。

 

クリスマスは僕の実家にとって一年のうちでもかなり大きなイベントだ。羊肉を買い、鮭のムースを作り、ワインを開けて、チーズを食べる。そうしたささやかな贅沢を、たいそう贅沢なこととして味わう。クリスマスプレゼントもやはり用意することになっている。なんとなく全員が、「今年はプレゼントなんて用意してませんよ」というふりをする。しかしきまって、ころあいを見計らって、毎年間違いなくプレゼントの交換が行われるのだ。

 

もちろんこの間は、実家でのひさしぶりのクリスマスだったから、僕もプレゼントを前もって準備していた。プレゼント選びはとても難航した。引っ越しを控えた妹夫婦には何をあげるべきか。もう高齢者の仲間入りをしている両親には何をあげるべきか。悩みに悩んでそれぞれにプレゼントを選び、プレゼント包装をしてもらい、いそいそと部屋へ――見られないようにして――運んだ。

 

自分はちっともかわいくない子供だったと思う。誕生日やクリスマスなどプレゼントをもらえるタイミングには、できるだけ高価そうな――といっても、なんとなく買ってもらえそうな範囲で、の話だが――おもちゃを選んでいたような気がする。

 

ある年、販売促進用の漫画とともに流行っていた、あるおもちゃをねだったことがあった。両親はおそらく良かれと思って、そのおもちゃの「少し大きな」「電動の」を買ってきたのだった。当日になって、プレゼントを渡された僕は、きっと嫌な顔をしたんだと思う。なぜって、僕が欲しかったのは「少し小さな」「手動の」おもちゃだったからだ。その日以降、そのプレゼントは「なかったこと」になり、戸棚のなかにしまわれてしまった。子供心に、僕は両親を傷つけてしまった、と死ぬほど後悔した(そして、こうしてクリスマスのたびに何度も思い出しては自分を責める)。

 

今回のクリスマスももちろんプレゼントの交換が粛々と行われた。みんなそれぞれに渡されたものを見て嬉しがっていた、あるいは、嬉しがるふりをしていた。両親が僕らにくれたものは、家族みんなでおそろいのマフラーだった。そこまで高価なものではないが、そこまで安価なものでもないだろう、といやらしい大人である僕は頭のなかで電卓をはじいた。でもなにより、こうして久しぶりに全員そろった家族が、プレゼントを囲んでわいわいしていること自体がすごくいいことなのだ、と思える感性がすでに僕のなかに備わっていたことに安堵した。僕のなかにまだ生き残っているあの腹立たしい子供も、いまの僕と同じように幸せそうな顔をしていてくれるといい、と思う。

Barbershop Swing

福岡のミュージシャン、大石みつのんさんが好きで、CDは全部持っているのだけれど、最近新譜が出たので送っていただいた。

『Barbershop Swing』という名のとおり、閉店する理髪店(Barbershop MIZUNO)の企画で、ライブアルバムを作ろうということになったらしい。ジャケットも凝っていて、これは裏面なのだがまわりの模様が、「理髪店の例のクルクルのマーク」と「外国からのAIR MAILに特有の例のトリコロール」とにひっかけてある。

 

内容はというと渋い選曲のスウィング、ロカビリーのカバーから日本語のオリジナルソングまで幅広く、みつのんさんの今までのライブ感がつまったアルバムになっている。一緒に演奏しているベースのイトウダイ(元Bogalusa、Double Double)さんも、ギターその他の松井朝敬さん(元Sweet Hollywaiians)もいつものことながらいい味を出している。

みつのんさんのサイトで直接に通販をされているそうなので、欲しい方はぜひどうぞ。ちなみにみつのんさんはキャスケットが似合う似合わないとかそういう次元じゃなく、頭から生えてるんじゃないかと思うくらいの人である。

 

 

 (じつはこの日は、Bogalusaという、話し出すと長いのだが素晴らしいスウィングのバンドがあって、そのボーカリストであったテッシンさんの命日でもあった。テッシンさんの相棒であったのがイトウダイさん。ダイさんの音楽遍歴だけでもひとくさりあるのでまた機会をあらためて書きたい)。

 

 

まとまりがなくなってしまったけれど、最後に何回聞いたかわからない、みつのんさんの「逢いたくて逢いたくて」。

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アイ・ラヴ・ジャズ

パリジャンの友人に聞いた話だが、フランス人が日本に来ると「日本人ってジャズ好きなんだね!」と驚くらしい。実際どこの街に行っても、気の利いた雑貨屋や若い人が経営しているらしい飲食店に入ると、たいてい決まってジャズが鳴っている。

 

だが、これは日本人がジャズが好きだということの表れでは全然ないような気がしている。強いて言えばジャズが「嫌いではない」とか「身近なものだ」というだけなのではないか。その証拠に、「好きな音楽は?」と聞かれてジャズと答える人はとても少ない。

別にちょっといいかもという程度で好きだと言ってはいけないという話ではなくて、なんとなくいいかも、みたいな人が好きだとはっきり宣言しない理由って、一体何なのだろうと以前から疑問なのだ。 単なるイメージの問題ではないかとも思える。日本でジャズといえば、なんとなく小難しくておじさんのやっている音楽というイメージがある。あるいはツウぶった人間のやるものだとか。ジャズはややこしい、という印象があるから好きと言うのがはばかられるということだ。だが、僕が見るに、おそらくこれはもっと根が深い話だ。

 

ジャズには、ロックンロールのようにアイ・ラヴ・ロックンロール、と言ってしまえないねじれのようなものがある。熱狂の音楽ではないのだろう。ジャズライブでこぶしを突き上げている人は見たことがないし、プレイヤー自身もそうしたものを求めていない。一方で、一生かけて味わえるような強烈な魅力もあるし、ビートニクの詩人たちはクスリで朦朧としながら感覚的にジャズを楽しんだというが、演奏するためには、和声やメロディの複雑さに対する感性や知性が必要とされる。

感覚的な心地よさを遅らせるとか、ずらすということがジャズにとって本質的なことなのではないだろうか。つまり、単純なジャズはジャズではないのだ。もっとも簡単な形のジャズ、すなわちスウィング、もっといえばブルースだって、ちょっとしたリズムの遅れないし走りとか、半音下や上からのアプローチによって気持ちよさをズラすのは必須の要素だ。焦らしというか、余裕というか。このちょっとした「ズレ」にたまらない何かがあるのだけれど、それは何なんだろう。まだ答えは出ない。

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帽子を洗う

身に着けるもののなかでも、帽子は特別だ。現代ではべつになくても成立するし、むしろフォーマルな場では脱帽のほうがマナーである。

だが僕は帽子がとても好きで、うまく帽子をかぶっている人(かぶりぬし)を見ると目で追ってしまうほどだ。素敵なかぶりぬしとすれ違ったりすると、やられたぜえと思うし、あの人になりたいとさえ思う。帽子にはそれぞれの「かぶり方」があって、かぶりぬしのライフスタイルやファッション、体型、キャラクター、体調などにも左右される(と勝手に思っている)。それらはすべて、帽子自身が要求するものなのだ。

 

とりわけ僕が好きなのは、キャスケットと呼ばれる、ベレーとハンチングのあいのこみたいな帽子だ。つねにはかぶらないまでも、部屋にはかならずいくつかあって、気分のいいときにはそれに合わせて服を選んだりもする。キャスケットのかぶりぬしに必要なのは、ある種の上品さやユーモア、そして少しの野蛮さだ。実際、僕自身いまだにあまり似合っていないけれど遮二無二かぶっているのは、この帽子に選ばれるような人間になりたいという理由からだった。

全盛期はおそらく音楽でいうとスウィング時代であろう。20世紀初頭、まだ帽子が必須アイテムだった時代。ハットの似合わない低賃金の労働者たちを中心に、ハンチングやキャスケットが大流行した。裾のほつれたスーツで、たばこをくわえて、こうした帽子を斜めにかぶっている彼らは、ある意味でロックやパンクのような精神性だったに違いないと想像する。

 

先日、お気に入りのものを久しぶりに箪笥から出すと、長くしまってあった冬物特有のすえたにおいがした。洗わないとと思いながらそのまましまっていたせいだろう。このさい、思い切って洗ってやることにした。あたたかい石鹸水を洗面所にためて手で軽くもみ洗いしていると、不平不満をもらすかのごとく、灰色や茶色の汚水がどんどんたまってくる。ごめんよと思いながらそれらをゆすぎ、曲げたハンガーで干す。

近頃こいつをかぶって外出することがなかったせいか、両名とても不機嫌そうである。ちゃんとご機嫌をうかがわなければ、今後かぶらせてくれなくなるかもしれない。そうなったら終わりだ、と思う。窓のそばにかかった二つのキャスケットは、水を滴らせながら、じろりとこちらを値踏みしている。

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目だけで

 

以前、ちょっとしたご縁があって、筋ジストロフィーの療養センターでの、ボランティアめいた活動に参加したことがあった。ボランティアというよりも、友人の友人がそこにいるので、ついでに他の患者さんたちと一緒に歌いましょうという「お楽しみ会」みたいなものだった。

 

ある人が「詩を書いている」といって僕に見せてくれた一枚の紙が衝撃だった。正確な文言は忘れてしまったが、恋の詩で、あなたを瞳の中で抱きしめた、といった内容だった。他愛のない表現のように聞こえるかもしれないが、ご存知の通り、筋ジストロフィーは体が徐々に動かなくなってしまう病気だ。病状が進行すれば、恋愛をすることはおろか、コミュニケーションだってままならなくなり、やがては肺や心臓を動かすこともできなくなってしまう。そして現在のところ、この病気を完全に治療する手だてはない。だから「瞳の中で抱きしめる」ということが、彼にとってどのような表現だったのかを言外に想像してしまう。何気ない一節だったが、その言葉はずっと頭の片隅に沈殿していた。

 

それから何年かしてつい最近のことだ。何気なくSNSを見ていると、谷川俊太郎の詩の断片が目に留まった。「目だけで」という詩だ。2010年7月に朝日新聞の夕刊に掲載された詩だそうだ。全文引用することは避けるが、谷川さんがあまりにもそのときと同じ感覚を読み込んでいて驚いた。そのままだと少しセンチメンタルな詩だが、僕は勝手に筋ジストロフィーとともに生きていた「詩人」を重ね合わせてしまっていた。

 

目であなたを抱きしめたい

目だけで愛したい

ことばより正確に深く

じっといつまでも見続けて

一緒に心の宇宙を遊泳したい

 

そう思っていることが

見つめるだけで伝わるだろうか

いまハミングしながら

洗濯物を干しているあなたに

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火鍋食べ放題の店「Auciel」

 

中国人街というのはどこにでもあるが、パリには日本でのように日本ナイズドされていない、なまの中国人街がある。中国語しかほとんど話せないまま、パリで生まれて死んでいく中国人たちがたくさんいる。

 

かといってとくに政府に声高に自治権や独立を求めたりするわけではないし、政治的に代表を立てたりするということもないようだ。ほかの国でもこうした人々(日本語では「華僑」という)がいて、独自の文化を形成している。

 

裏を返せば、パリではわりと本気の中華が食べられるということでもある。写真はAUCIELという店の「火鍋marmite」。なんと具材は肉を含めて食べ放題である。それほど値段も高くないので(3000円くらい)人気店である。予約も一週間以上まえからは受け付けていないようだが、行ったときは満席であった。

 

しかし、材料は中国語で書かれており、説明はフランス語なので、じっさいに何が来るかは注文してみないとわからない。わからないままに頼めば当然火鍋は、闇鍋のような料理と化してしまう。調理は直接IHの調理テーブルで行うため、アトラクション感が増す。大人数で行ってもよし、お腹が空いたときに一人で行くもよし。

 

 

 

(パリ)では珍しい具材:

おあげさん、ゴムみたいな太い乾麺、羊肉、内臓系、エノキ、豚のから揚げなど。

 

 

営業時間

12:00-15:00、18:00-23:30

月、水の午前は休み


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パリの気球

 年末に近づくにつれてだんだんと忙しくなってきた。年末まで、という締め切りにじわじわと攻めたてられ、これこそ「真綿で首をしめられる」という経験なのだと思い知る。

 寒いパリの街並みをゆく、モコモコに着こんだパリジャン(やパリジェンヌ)を横目で流し見ながら家路をいそぐ。日本との時差もあって、徹夜とは言わないまでも明日の朝には提出したいものがある。僕は手前の仕事から片付けていく性分なので、いつまでたっても長期的な仕事が片付かない。ものの本によれば、そういうときは「長期的な仕事」を「短期的な仕事」に小分けして手前においときなさい、ということらしいが、学問関係の仕事は小分けにできるような代物でもなかったりする。それこそ何日も、椅子に座って腕組みしながらじいっと考え続けて答えを探さなければいけない分野だと思う。

 

 そんなぎすぎすした毎日の中で、ふと目を見上げるとこんな風景に出会った。なんだあれは。気球だろうか。よく見ると「籠」の中に人間が入っているようだ。ネットで調べてみると、「アンドレ・シトロエン公園」の気球らしい。たった12€で乗れますよ、と書いてあった。それが高いのか安いのかわからないが、不思議な体験だろう。平日の昼間に空からパリを眺めるのはどんな気分だろうか。その気球は今でも僕の胸の中にぽっかりと浮かんでいる。

 

 

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パサージュの駄菓子

 小さいころはお金が無くても平気だった。よくも堂々と、ポケットに数百円だけ忍ばせて街中を闊歩していたものだ。もちろん今でも金持ちというわけではないので、僕の薄っぺらな財布にはそれほど大金が入っているわけではないけれど、その時よりは幾分ましだ。わずかでもお金を持っているときには豊かな気分になるし、そうでないときには何か特別欲しいものに出会ってしまわないかと考えてしまう。我ながら小市民的な性分である。

 

 しかし、子どもとはいえ、お金の使い道は今よりもたくさんあったはずだ。おもちゃやゲーム、流行りのキャラクターグッズや漫画。食べることと仕事に関すること以外はあまりお金を使わない(使えない)僕としては、当時の豊かな想像力がうらやましくも思える。お小遣いは数百円程度しかもらっていない分、それを何に使うかけなげにも一生懸命考えていたのだ。

 

 そんな子どもにとってありがたいのが駄菓子の存在である。そもそも一個数十円だったし、カラフルだったりおまけがついていたりと、それらは高価ではないけれど子どもたちの目を輝かせるのに十分だった。子どもだまし、と大人は言うかもしれないけれど、子どもだましに引っかかることができるなんて、なんと幸福なことだろう。鋭い目つきで頭の中の電卓をはじきながら「コスパ」を考えるようになったのは一体いつからだろう。どだい、「コスパ」という言葉自体が「ト」「フォーマンス」を略していい気になってやがる。なんていやな言葉なのだろう。これからはすすんで「費用対効果」と言っていきたい。(意味はかわらないけど)

 

 この間、とあるパサージュのおもちゃ屋の中にひっそりと置かれていた駄菓子のガムを見つけた。やっぱりどこの国にもこういうのってあるよな、と思いながらパッケージを見てみると、「あたり」が出たらもう一個と書いてあるではないか。きっとあの時の自分なら大喜びで買っていただろう。なんだかいいなと思って写真を撮ってはみたけれど、つまらない大人は結局ひとつも買いはしなかった。

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鶴のかくれ家

パリには、イメージ通り、芸術家がたくさんいる。主収入は別にあって、ちょっとした時間に絵を描いているだけでも彼らは「アーティスト」を名乗るのだ。

 

芸術家には必ずひとりっきりになって創作する時間が必要だ。最近教えてもらったのだが、かの天才ダ・ヴィンチがこう言ったらしい。

「画家は孤独でなければならない。一人きりのときに彼は完全に自分自身になれるのだ」。

かくいう僕だって、芸術家というわけではないけれど、何か新しいものを書いたり作ったりするときは一人にならなければならない。家の人がいるときは別の部屋に隠れたり、ちょっと外に避難したりする。

 

ふと、おとぎ話の「鶴の恩返し」で「私が機織りをしている間はけっして覗かないでください」と言った鶴の気持ちがわかったような気がした。素晴らしい布を織る鶴はきっと、芸術家だったのだ。

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PUNPEE「Modern Times」

ヒップホップは学生時代から好きで、よく聞いているが、今回ほど楽しみだったアルバム発売はそうない。

PUNPEE(パンピー)というトラックメイカー/ラッパー/プロデューサーの新しいアルバム、「Modern Times」である。

 

一般には、たとえばテレビ番組「水曜日のダウンタウン」のオープニングや、レッドブルのコマーシャルなどで最近おなじみになってきた感がある。だが彼は、ヒップホップファンの中ではこれまでつねに押しも押されぬ有名人であった。

 

たとえばUMB(アルティメット・エムシー・バトル)でのフリースタイル(即興ラップ)での力の抜けたパフォーマンスや、弟S.L.A.C.K.と組んでいたユニット、PSGの快進撃、そして最近ではベテラングループ、RHYMESTERのアルバムプロデュースなど、話題の仕事は枚挙にいとまがない。

 

そんなPUNPEE待望の新ソロアルバムが「Modern Times」である。

導入的な一曲目から人を食ったような毒気のあるナンバーだし、どの曲も新鮮な驚きのあるフルコースだった。

(RHYMESTERの「RESPECT」といい、GAGLEの「3 MEN ON WAX」といい、一曲目でふざけたアルバムは大好きだ)。

このアルバムにおいてひとを一番驚かせ、おそらくこのアルバムのコンセプトでもあるのが、「これが数十年後にどう聞かれるか」というタイムカプセル的なアイディアである。

ジャケット絵にあるように、BACK TO THE FUTUREのごとく、未来からこのアルバムの時代を振り返っているような視点。

PUNPEEの鋭い時代観がよく表れた一枚だと思う。

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The Shacks「This Strange Effect」

Tverというサイトがあって、日本のテレビ番組がアーカイブされている。

フランスからだと、わざわざ日本にVPN接続するというちょっと面倒な方法を使わないと見られないが、ちょっと夜に時間が空いたときなんかに見るとホッとする。

日本でもフランスでもテレビを持っていないので、なんでもない時間にテレビが流れているのがノスタルジックである。

 

ところで、最近そんなTverによく流れているCMのBGMが気になった。

The Shacksというバンドの「This Strange Effect」という曲。

原曲はThe Kinks。数々の名曲を残したバンドの曲だ。

(なぜか僕はかねてから、BeatlesよりもKinksのまじめさが好きだった)

 

歌詞には特にひねりがなく、意外にポジティブなことを歌っているように見える。

 

「君から変な影響を受けてる

 そして、わたしはそれが好き

 

 わたしの世界は真っ白にされてしまった

 暗闇は輝きに変わった

 

 そう、君から変な影響を受けてる

 そして、わたしはそれが好き」

 

ただし、ここでいう影響はおそらくドラッグによるもので、2人でハイになっている状況が思い描かれる。

The Shacksが歌うことによって、この歌は不思議なニュアンスを帯びていく。

原曲のごつごつしたニュアンスは残っているけれど、何度でも聞ける洗練もある。

普段ネットで動画を見ていてCMが挟まれると、せっかちな僕は必ずスキップボタンを押してしまうのだが、このiPhoneのコマーシャルだけは飛ばさずに見てしまう。

 

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四月の魚

毎年エイプリルフールになると何か嘘をついてやろうとたくらむのだけれど、結局気づけば何もできずに終わっている。

 

エイプリルフールに人をだますのは爽快だ。頭脳ゲームでさえあると思う。三島由紀夫も『不道徳教育講座』の中で、嘘をつくのは「頭脳鍛錬法」だと言っていた。

 

だけれど、大人の嘘はもうエイプリルフール向きではない、と思う。大人になればなるほど、ひとは嘘を塗り重ねていって、あたかもそれが自分の一部であるかのようになってしまう。たとえば今日いくつ小さな嘘をついたか、数えられる人はいないかもしれない。それほど日常生活と嘘は同化してしまっていると感じる。反対に言えば、日常生活との関係を考えてしまって爽快な嘘が見つからなくなるのだ。こう言ったら相手が傷つくかな、とか、自分のイメージに合わない、とか、会社に迷惑がかかる、とか。嘘がうまくなりすぎてしまったからだ、と思う。

 

フランス語でエイプリルフールは「四月の魚 poisson d'avril」という。嘘をついたりもするが、相手の知らないうちに背中に魚の絵を貼り付けて、やーいやーい、という遊びをしたりする。今年の4月1日には、ある親子の家に食事に行ったのだけど、その家の子がお母さんの背中に魚の絵を貼り付けて喜んでいた。彼の幼さ、無邪気さに感じ入る以上に、こうして人をだますことの爽快さを味わえない自分を少しだけ恨めしく思った。家に帰るまで、なんとなく彼のことを考えていた。あとどれくらい、彼はこうして爽快に人をだませるのだろう。部屋へ戻って上着を脱いだとき、コートの背中に一匹の「魚」を見つけた。僕は、やられた、と思うと同時に彼の屈託のない笑顔を思い出した。時刻はもうとっくにエイプリルフールを過ぎていて、僕は今年も嘘をつくことができない。

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ボンソワール

僕が住んでいるところは、学生寮のようなもので、トイレやキッチンは共有。シャワーもある部屋とない部屋がある。そのため自然と外に出る機会が出て、同じ階に住む人間は大体おたがいに把握している。

住んでいる人の国籍も様々で、メキシコから来ている人もいればフランス人もいる。フランスにいるだけに、出会う外国人とはたいていフランス語で話すのだが、この寮の住人のうち2割くらいの人は大学で英語しか話さないのだろう、フランス語があまり得意ではないが、それでも挨拶くらいはフランス語だ。ボンジュール(こんにちは)とかボンソワール(こんばんは)とか言い合って過ごしている。

 

そんな中、同じ階にかたくなにフランス語を使わない女性がいる。いつ会ってもハイ、と挨拶。こちらがフランス語なのに、常に英語である。たしかにフランスでフランス語を使うと逆に一般人として見てくれないというか、子供扱いされたりすることもある――日本で外国人が片言の日本語だとちょっと愛嬌があるように見えたりするように――ので、英語で話し続けるのは彼女のプライドからなのかもしれないと思う。実際気の強い人で、友達と騒いでキッチンを占領しているのに「パーティなんてしたこともないわ」と冗談を言ってきたり、ときどき言い争っている声も聞こえる。なんとなく苦手だなぁと思っていた。

 

しかし、一度だけ彼女がボンソワールと言ったことがある。

その日、僕はキッチンで料理をしていて、鍋や材料なんかを手に持って自分の部屋と行き来していた。なんだかんだ言って自炊は好きな物が食べられるので外よりも好きだ。というかパリでは外食は友達と飲むとき、と相場が決まっているので割高なのだ。その日もパスタか何かを作っていた。

突然、彼女が部屋から飛び出してきた。しかもすっぴんにバスタオル一枚の姿。彼女の部屋はトイレの真ん前だから、トイレに行くつもりだったのだろう。こっちはというとネギとニンジンとピーラーを持っているところだった。お互い思いがけない姿に、うわ、という感じ。なんか申し訳ない、いや、別にこっちは悪くない、というか被害者だ、けどやっぱりばつが悪い。僕がとっさに気を取り直してボンソワール、と言う。こんな状況でこんばんはもへったくれもないのだが。すると彼女もボンソワールと返したのだ。さっさと通り過ぎてキッチンへ戻る僕。さっきのはなんやったんやと思いつつも、ボンソワールって言わせたったぜとなぜか勝った気分になったのだった。

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突発性難聴の話

あんまりストレスの無いようにのんびりと暮らしているつもりでも、海外というだけで無意識のうちに我慢したり無理をしたりするようで、突発性難聴のようなものにかかったことが何度かある。

 

あんまり苦労自慢は好きじゃないし、体質みたいなものだと思うのだけれど、自分はホームシックにあまりかからなかった分、体に変調をきたしていたようだ。

かかったのは11月くらいで、授業にも慣れてきたころだ。慣れてきたとは言えど、100パーセント理解できることはまれで、自分のわからないところはiPhoneでしていた録音を聞きなおしてなんとか補完していた。

集中力は体力と比例していて、一日に6時間授業がある日は最後の2時間は理解力も落ちていた気がする。確かに聞こえているし、文字が頭に浮かぶのに意味が入ってこないことがあって、ジワリと変な汗をかいたものだった。たちが悪いのは、その最後の2時間の授業担当が、よく冗談を言う先生だったことだ。冗談が聞き取れない場合は、クラス中笑っているのに僕だけ険しい顔をしていることになる。フランス人の笑いの沸点は総じてかなり低いのだが、それにしても笑顔はコミュニケーションの基本(普段根暗でもこういうことは考えるのだ)。笑いたいのだが笑えず、そういうときに授業中の孤独感はたしかにあった。

 

そんな中、片耳が急に聞こえなくなった。ストレスで難聴になるというという話は知っていたのだけれど、自分がなるとは不思議だった。日々なにかと成長しているつもりだったし、生活もだんだん楽しくなってきたころだったから、耳が聞こえないとなると何故だか理由がさっぱりわからなかった。それは気圧が高いとき、耳抜きをする前みたいな感覚だった。片耳だけが水中にいるようだった。原因がわからないから耳抜きを何度かするものの、さっぱり良くならない。音楽用語でいえば、「ゲインが低い」感じ。だいたい丸一日で治るが、油断をすれば一週間に三日くらい耳があまり聞こえない日が続いた。海外で耳が聞こえないのは致命的と言っていいだろう。聞こえる側の耳を教壇に向けてなんとかなったものの、ふいに物音がする方がわからなかったりもした。

 

とくにオチはないのだけれど、今は元気でなんとかなっているので、こういうものは本当に気持ちの持ちようなのだろうなと思う。でも体は正直なので、頭で大丈夫だと思っていてもだめなときはだめだ。よしもとばななに『体は全部知っている』という短編集があったけれど、ほんとにその通りだと思う。原因不明の不調が続いたときには、しっかり休みましょう。

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日本の定食屋「Naniwaya」

 お昼ご飯を大事にしたい。

 パリにおいて、夜は外食のハードルが極めて高いので、なんとかお昼で「行きつけ」を作りたい。しかし僕の提示する条件はきびしい。安い、早い、多い、うまい、である。

 

 ちなみに京都には「はやし」という定食屋があって、「ようて」、「すうて」、「おいしい」の一文字ずつをとって「は・や・し」と謳っている。(真偽のほどははさておき)理想的な店だと思うのだが、よく見りゃ「し」は微妙である。本当は「は・や・お」であるべきだし、店長の名前も「速雄」とかだとなおいい。なんだよだいたい、おいしいし、って。その後に何か言うつもりだったのか。

 

 閑話休題。パリの日本食は割とお高めなので、お昼に行くのもなかなか大変なのだが、Naniwayaはその中でもおすすめの一店である。というのも例の「四か条」を、そこそこ満たしてくれるからである。(量が多い分「はやし」より理想的である)

 

 画像はかつ丼。なんと8€である(1000円程度)。この時は大盛りにしたので正確には10.5€。本来はうどん屋なのだが、なんとなくごはんも食べられて値段もこのあたりならかつ丼でございましょう。味付けは甘味が少ないが、ちゃんと出汁の味。ネギも当然九条ネギではなく謎の青ネギだし、海苔もぱさっとしているがそれなりに納得できる。ほかにも刺身定食やカツカレーなど、定食屋に求めるものが結構ある。今のところお昼ご飯の最適解はここ。

 

 ちなみに隣に座った家族が、「稲荷ずし」と「太巻き」の違いをお店の人に聞いていたが、彼は稲荷ずしの「稲荷」部分の説明に相当苦労していた。フランス語で「甘い何かです」と言っていたが、家族はなんじゃそれという顔をしていた。なんじゃそれ。

ピラミッド駅が最寄りで、アジア食品店の「K-MART」の向かい側にある。

このあたりは日本食が多いので、折を見て制覇していく所存。

 

営業時間

11:30-15:00、18:00-22:30 

無休


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